【政治家論】 リーダーシップ(3)
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京都新聞連載「政治論」
(2)思考の可視化 政治哲学者 仲正昌樹さん【2009.08.21掲載】
http://www.kyoto-np.co.jp/info/culture/seijikaron/090821.html
「根拠」を明確に、進む道示せ
今回の選挙を「日本政治の岐路」と位置付ける報道もあるが、疑問だ。官僚の意見を見極め、使いこなす能力がある政治家が与野党どちらにも、それほどいるとは思えないからだ。
各党のマニフェスト(政権公約)を見ると、内容が大ざっぱすぎる。例えば、民主党は「国家公務員の総人件費を2割削減」と掲げている。よほど大胆なことをしないと実現できない数字だが、どこをどう圧縮するかがはっきりしない。
前近代的な「人」基準
一方で、与党が今、行っていることにも根拠が感じられない。例えば、行財政改革の一環で、国立大学では毎年1%ずつ国の補助金が削られているが、なぜ1%なのかが分からない。一方で、官僚が理事として天下りをするために、大学は淘汰(とうた)されず、学部の新設がどんどん認められている。
政治家は、政策決定時にどの意見をどの根拠で選ぶか、判断基準を持たねばならない。そうでなければ、現場や実務の知識で上回る官僚に丸め込まれる。なのに、日本の政治家は与野党問わず、「こういう根拠で決めた」ではなく、「私が信用するこの人が言うから決めた」と非論理的に判断を下しがちだ。
例えば、自民党の町村派の議員たちは「森(喜朗)さんが言うから」というような判断をする。民主党も「永田(寿康・元)議員が言うから」と、上層部が根拠の弱い話を信じて、偽メール問題で失敗した。記者に「なぜ」と問われても、信じた根拠が答えられない。
「誰が言っているか」で判断する日本の文化は、地縁血縁を重視する前近代的な農村社会の考え方だ。具体的目的が合致する人とそのつど契約を結ぶ市民社会の発想ではない。
社会契約的発想を
西欧では、社会契約論が17、18世紀に盛んに論じられ、市民革命が起きた。国民相互の契約に基づき、憲法などによって規定される“国のかたち”が重視されるようになった。
ドイツなら「連邦制で、市場を調整する社会国家で、ナチスの過去を教訓に他文化との共生を目指す国」というかたちがある。米国なら「自由、平等、多様性を重んじる国」というかたちがある。
一方、日本では戦後、憲法9条といった限られたテーマを除けば、与野党間で、国のかたちが十分議論されることがなかった。高度経済成長の利益を配分してもらうのと引き換えに、政治家がかたちを示さなくても、官僚が政策の大枠を決める体制を国民も受け入れた。
だが、この枠組みはもはや限界だ。高度成長が終わり、分配できる利益は限られていることに有権者も気づいている。これからは、自分が多少損をしても、「私たちが選んだ国のかたちに従っての政治だから仕方がない」といった社会契約的な発想をしていかねばならない。
残念ながら、今の日本では、与野党どちらの政治家も、有権者が「仕方がない」と思えるだけの「国のかたち」を示していない。政治家自身も政策を選ぶ基準が無いため、官僚任せになっている。
理念を語る言葉は、政治家一人一人の思考と閣内、党内での議論の過程が、メディアを通じて可視化される中で生まれてくる。
政治家が、「人」ではなく、「論理」で政策を選択していくことが、官僚に丸め込まれてきた日本の政治を変える第一歩になる。
政治家の中には、自分の思考過程をブログや個人公約などさまざまな形で発信している人もいる。有権者も政治家のレトリック(修辞)に引っ掛からず、普段から政治家の思考と政策決定の過程を問うたり、辛抱強く追っていくことが必要だ。
私が望む3つの資質
◆官僚を敵視せず、使う姿勢
◆政策を決める論理的思考
◆国のかたちを語る言葉
広瀬香美のものまね 西尾夕紀
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